1924(大正13)年の創刊から100年間、科学への好奇心あふれる子供たちを応援し続けてきた雑誌『子供の科学』。誌面に載っている最先端の科学の話や、驚きの実験、おもしろい仕掛けの工作などにワクワクして育った読者から、ノーベル賞受賞者をはじめとした大発見をする研究者、画期的な発明をする開発者たちが生まれました。 そんな『子供の科学』を読んで育った読者や関わりのある方々からメッセージをいただく企画です。
『子供の科学』のころ
私は今年76歳になった。私が『子供の科学』を読み始めたのは小学校3年生、9歳のときだ。母親にねだって定期購読を始めたのか、母親が子供を科学少年にしたかったのかはわからない、多分後者のほうだろう。すると私はまんまと母親の計略に乗せられてしまったことになる。
私は22歳で海外に出て6年ほど一度も帰国しなかった。帰国する理由も金もなかったからだ。その間に実家は建て替えられ私の子供から大学生までの蔵書は全て廃棄されてしまったので、『子供の科学』も残っていない。私は「消えた人」扱いになっていたのだ。
私は古書ネットで見かけた6冊の『子供の科学』古書を取り寄せてみた。その中に1960年新年号フロクがあった。私が12歳のときのものだ。私の64年前の記憶が突然フラッシュバックのように襲ってきた。私は私の脳内に眠っていた古墳の石棺の蓋を開けてしまったような気がした。表紙には「月と月ロケットAからZまで」と書かれ、月の裏側のイラストが描かれている。そうだ1959年10月にソヴィエトによって打ち上げられた人工衛星がはじめて月の裏側に回り込む軌道に入り、その写真が送信されてきたのだ。人類が初めて見る月の裏側映像のニュースに接して、私は子供心にソヴィエトはすごい、科学はすごい、共産主義もすごいと驚嘆したことが思い出されてきた。そんな記憶は私の心に無意識の澱となって沈澱したのだろう。それから40年の歳月が流れた。私はニューヨークで暮らしながら古典籍や骨董などをオークションで物色するようになっていた。
ある日のオークションでアイザック・ニュートンの『プリンピキア』英語版初版を買うことができた。またある日、「科学」と題されたオークションで「ルナ3号による月の裏側写真プレスキット」なるものを入手した。ソヴィエトが西側諸国に勝ち誇るように送付した広報資料だ。月の裏側写真の裏側にはスタンプが押され「オリジナルプリント、使用後はソヴィエト ウィークリーに要返却。ロザリーガーデン3番地、ロンドン」と記されていた。私は淡い記憶を辿ってこの資料を買うことにした。しかしその記憶が『子供の科学』だったことに今回気が付いたのだ。子供のときにすごいと思ったものを大人になって買えたのだ。しかしすごいと思ったソヴィエトは現実世界からは消えていた。この資料はもう返却できないのだ。
私は興味本位に『学科の供子』昭和5年12月号も取り寄せてみた。右から左書きだ。130ページ程あり、戦後版よりある意味立派だ。内容も充実している。「過去未来を通じて 物質は無くならない 理化学研究所 理学士 二神哲五郎」、「永久普變な物尺
光で長さを測る法 工学士 黒田正雄」、「人間物語(12)驚くべき巨石建造―梃子の発明 早稲田大学教授 西村真次」、「三十三年目に発見された 北極探検隊アンドレー氏の最期」など、子供レベルではない編集だ。戦前、子供達は子供扱いされていなかったのだ。子供の子供扱いは戦後のことだったことに気が付かされる。さらに広告に目を向けると「国産冩眞機の覇王 乾板、フィルム兼用(大名刺形)スペシアルイーストカメラ」金二十八圓が私の目に飛び込んできた。これは蛇腹付きのビューカメラで、私が現代美術作家として今も使っているカメラとほぼ同型だ。私はいまだに昭和5年を生きているのだと思った。
『子供の科学』バックナンバーを見ながら、私は自分自身に退化という未来を与え、生きてきたように思う。浦島太郎が玉手箱を開けるように、私は古いページを開いて、あっという間に白髪の老人になっていることに気づいて唖然としている。