1924(大正13)年の創刊から100年間、科学への好奇心あふれる子供たちを応援し続けてきた雑誌『子供の科学』。誌面に載っている最先端の科学の話や、驚きの実験、おもしろい仕掛けの工作などにワクワクして育った読者から、ノーベル賞受賞者をはじめとした大発見をする研究者、画期的な発明をする開発者たちが生まれました。 そんな『子供の科学』を読んで育った読者や関わりのある方々からメッセージをいただく企画です。
僕が小学校5年生のときに、たまたま立ち寄った本屋さんで、『子供の科学別冊切り抜く本 よく飛ぶ紙飛行機集 第1集』と出会いました。
当時、スチレンボードの飛行機が駄菓子屋さんで売っていました。それがすごくよく飛びます。でも、その飛行機は高いのです。おまけに1日遊んだら壊れてしまいます。だから、おいそれとは買えませんでした。ところが、「よく飛ぶ紙飛行機集」は45機も飛行機が入っていました。
おまけに「切ったら終わりなので、トレースして別の紙で作ろう」とまで書いてあります。トレースするために必要なカーボン紙やトレーシングペーパーのことまで書いてあります。紙の目があることもこの本ではじめて知りました。
早速作ってみましたが、同じような部品を何枚も切らなければなりません。途中で嫌になりました。おまけに、はじめて使うセメダインCは臭いし、くっつきにくいし、放っておいたらだらだら垂れてくるし、すごく使いにくいです。やっと完成した機体は、そんなには飛びませんでした。こんなものかと思いました。
次に作るときは、接着剤の使い方に気を付けました。しっかり乾燥させました。そうして作った2機目は明らかに飛びます。調整をしっかりしたら、体育館の端から端なんて楽々飛びます。自分が加えた力以上に飛ぶ感じがします。まるで生き物みたいです。飛ぶ姿も美しいです。僕はすっかり夢中になりました。
学校に持って行って、学校でも作りました。でも、今にして思えば、学校で休み時間に紙工作してる子どもって、ちょっと変わっていた気がします。
当時、この本は第4集まで出ていた気がします(※編集部注 1972~1984年の間に第7集まで発売)。早く次のが欲しくて、小遣いが貯まるのを待ちました。大切に隅々まで何度も読んだので、著者の二宮康明さんのことや、誠文堂新光社という出版社名、そして『子供の科学』という雑誌を知ります。雑誌には毎号1機の飛行機が付いているので、すごく欲しかったですが、頻繁には買えませんでした。でも『子供の科学』には、参考文献の専門書のことも書かれていました。僕は専門書も読むようになりました。
その後、運命の第3集と第4集に出会います。そこには「プロファイルモデルの設計の仕方」が書かれていました。
それは、航空力学の入門編でした。いきなり難しいことが書いてあります。でも、すべてフリガナが振ってありました。だから専門用語でも読むことができました。
しかし、その計算は筆算では不可能でした。でも、新しい物好きな父のおかげで、家には市販されたばかりの電子卓上計算機がありました。それを使いこなしたら難しい計算もできました。しかし、小学生が電卓を使いこなすと、筆算ができなくなります。紙飛行機はよく飛ぶようになりましたが、算数は0点になりました。
その頃には僕は、「紙飛行機も本物の飛行機も同じ原理で飛んでいる」ことを理解していました。学校でも紙飛行機の教室を開いていました。僕が飛ばすとよく飛びます。それもそのはず、みんなは紙飛行機を飛ばすときに、ボールを投げるようにスナップを効かせてしまうのでうまく飛ばないのです。球技が苦手な僕はラッキーでした。やがて僕は、みんなから飛行機博士と呼ばれるようになりました。
当時は〇〇博士はたくさんいました。野球博士も、恐竜博士も、芸能人博士もいました。みんなの「好き」は価値を持って尊重されていました。
その頃には「子供の科学別冊切り抜く本」というペーパークラフトの本ががどんどん出版されました。紙で戦闘機や戦車や軍艦、蒸気機関車を作れるのです。僕は夢中になります。やがて、本に載っていない物も立体化したくなります。そこで専門書で製図や幾何学を勉強して自分で設計するようになります。わからないことを調べて、わかって、できなかったことができるようになるのは素晴らしい喜びでした。
やがて小学校の卒業式を迎えました。みんなが中学で着る制服で集まりました。セーラー服は素敵に見えました。学生服も身が引き締まる思いでした。中学校が楽しみでした。
でも、中学校に入ったら、先生は威圧的で怖いです。そして、「博士」は「バカ」の代名詞になりました。僕は最初は中学校でも飛行機を作りましたが、あきらかにまわりの反応が違います。「子どもっぽい」「バカみたい」という言葉が聞こえてきました。僕が飛行機の本を読んでいると「授業に関係ないことをやったら損をする」と言われました。友達は大人が評価する「部活」と「勉強」しかしなくなりました。
やがて、テストの結果が重要になりました。点数が悪い子はみんなからバカにされます。でも、その子達は僕の仲良しだった子達でした。その子達と仲良くすると、中学で出会った友達から「やめた方がいい」と忠告されました。ショックでした。
僕は友達をやっつけないと自分を守れないことに気がつきました。ものすごく辛いことでした。
その頃から僕は学校の勉強が嫌いになり、学校にも行けなくなりました。そんなときも僕の側にあったのは「子供の科学別冊切り抜く本」達でした。
僕は学校の勉強は嫌いになったけど、自分の勉強は大好きでした。
僕は中学・高校とすごく成績が悪かったです。でも流体力学を学びたい一心で大学に行きました。そして大学でビックリです。大学の授業は僕の趣味だったからです。おかげで大学では良い成績を収めることができて、その結果、僕は航空宇宙機器を設計する仕事に就くことができ、自分で会社を興し、そしていまさまざまな企業と連携してロケットを作っています。
今の僕を支えてるのは「好き」です。それは大人や先生から「成績に関係ないから、くだらないからやめなさい」と否定されたことです。僕の「好き」はくだらなくなかったです。立派な学問でした。
日本のテストは暗記の量と正確さを競わせます。でも、これをやると「知らない=恥ずかしい」になります。そうなると、知ったかぶりをしたり、知らないことを見下したり、そもそも興味や関心がありません、となってしまいます。これでは、未知に向き合えないです。
どんな知識も未知の前では無力です。未知に向き合えるのは好奇心です。知りたい欲求です。
『子供の科学』とその別冊は、手加減も容赦もなく、でもわかりやすく体験しやすく「本物への入り口」を伝えてくれます。それが「知らないことを知る喜び」「できなかったことができる喜び」をもたらしてくれました。それが僕が勉強そのものを嫌いにならなかった理由です。
『子供の科学』は、今で言う「博士ちゃん」を生み出す本と言えると思います。僕の人生を変えてくれました。本当に感謝です。
だから僕は恩返しがしたいと思っています。いま日本中でロケット体験教室を開いています。
ぜんぶ紙でできたロケットもキット化しました。紙ですが専用のロケットエンジンで時速200キロを超えます。飛行の頂点で自動的にパラシュートを開いて安全におりてきます。40m四方の空き地があれば飛ばせます。
2023年11月に、僕の人生を変えてくれたよく飛ぶ紙飛行機集の著者・二宮康明さんは天に召されました。人の寿命は有限です。僕ももう60歳になろうとしています。
でも、『子供の科学』は100年続いています。これからもさらに100年続いて世界を支える力になるでしょう。僕は心から応援しています。
紙飛行機の二宮康明先生については、こちらの記事をご参照ください。紙飛行機の本のご購入も可能です。
1924(大正13)年に創刊された小中学生向けの科学誌『子供の科学』は、2024年で100周年を迎えます。100周年イヤーとなる2024年には、子供向けの企画はもちろん、100年間のすべての読者と一緒に盛り上がれるコンテンツやイベント、『子供の科学』とともに歩んできたパートナー企業とコラボレーションした企画など、100周年を記念したさまざまなプロジェクトを企画しています。
『子供の科学』では100年の節目を迎えるにあたり、科学技術の発展に貢献し、未来をもっとおもしろくするために、好きなことを探究して、チャレンジする子供たちをサポートする「KIDS STARTUP PROJECT(キッズスタートアッププロジェクト)」を立ち上げます。そのメインプロジェクトとなるのが、「好き」をトコトン究める次世代教育プログラム「小中学生トコトンチャレンジ2024」です。