1924(大正13)年の創刊から100年間、科学への好奇心あふれる子供たちを応援し続けてきた雑誌『子供の科学』。誌面に載っている最先端の科学の話や、驚きの実験、おもしろい仕掛けの工作などにワクワクして育った読者から、ノーベル賞受賞者をはじめとした大発見をする研究者、画期的な発明をする開発者たちが生まれました。 そんな『子供の科学』を読んで育った読者へのインタビュー企画。子供時代のお話や、今の読者の子供たちへのメッセージなどをいただいています。
世界的注目されるロボットクリエイター・古田貴之さんも『子供の科学』読者の一人です。小型ヒューマノイドロボット「morph3」、8つの脚を持つ車型ロボット「ハルキゲニア01」、東日本大震災後、福島第一原発に投入された国産ロボット、パートナーロボットから乗り物にトランスフォームする「カングーロ」などなど、最新のテクノロジーで数々の「人の役に立つロボット」を開発し続けている古田さんのロボット開発の原点とは?
──8歳までインドで過ごした古田さんですが、『子供の科学』はいつごろから読み始めたのですか?
日本で暮らし始めてすぐ、小学2年生から読んでいました。
──小学校2年生からですか!
3歳のときアニメ『鉄腕アトム』が好きだったんですが、インドの家の近くのお坊さんに、「キミはロボットが好きだけど、その真理はなにか」と問われました。5歳になって気づいたのが、すごいのは主人公のアトムじゃなくて「アトムをつくった天馬博士がすごいんだ!」ということです。そのときから、ロボットを開発する人になりたいと思っていました。
最初はレゴやプラモデルをつくって遊んでいたのですが、『子供の科学』を読み始めて、付録の紙飛行機や電子工作をつくるようになると、自分で設計図を書けるようになりたいと思うようになりました。それで、JIS規格を独学で勉強して、ロボットの設計図を書いて開発を始めたんですよ。
──材料を集めて、設計図を見ながらゼロからつくる『子供の科学』の工作誌面に刺激を受けたのですね。
小学校3、4年生のときには自分で設計してロボットをつくっていたのですが、このときはまだロボットを動かすことができなかった。そんな10歳のとき読んだのが、この1978年9月号「ラジコンはこうして動く」。鮮明に覚えています! 僕はこれでラジコンの存在を知ったんですよ。フタバ電子のサーボモーターとの出会いです。
この後、僕が中学1年生のときに、田宮模型から安価なラジコンが出てきて手に入れるんですが、高校1年生でそのラジコンを改造して、動くロボットをつくったんです。
その後1996年に、世界で初めて小型の二足歩行ロボットを歩かせることに成功したのですが、そのとき使ったのもフタバ電子のサーボモーター。ものすごい数のサーボモーターを関節に使って、このサーボモーターをラジコンで制御する部分をコンピューターで制御できるように技術開発して実現させたんですよ。その原点がこの誌面。もう僕にとっては神回ですね!
──古田さんのロボット開発の原点が『子供の科学』にあるとは驚きです!
私は子供たち向けのイベントでロボットの解体ライブをやったり、大学のロボティクスの講座で秋葉原に行って、実際にお店で電子部品を買って組み立てるというツアーをやったりしたのですが、それは僕の子供時代の『子供の科学』での学びをみんなにも体験してもらいたいからなんですよ。『子供の科学』を見ると、いろいろなものの解剖図や設計図が載っていたり、自分で部品を集めて組み立てる電子工作が載っていたりして、ここからメカの中がどうなっているのか、どんな部品がどう組み合わさって動いてるのかを学んでいったんです。
『子供の科学』を読んでいなかったら、僕はただの機械屋さんで、ロボットクリエイターにはなれなかったと思います。ロボットをつくるためには機械だけでなくて電気の技術が必要ということを、電子工作をつくるためにハンダ付けをして、トランジスターや抵抗器などの部品を組み立てる中で知りました。それから、『子供の科学』を読むまでは、数学や理科がロボットとつながっているということを知らなかったんですよ。『子供の科学』を読むと、例えばバネのしくみが詳しく解説されていて、「フックの法則」という中学生にならないと習わないような理論が出てきて、ものを動かすのに数学や力学の理論が必要であることに気づきました。
それから、10歳のときに「マイコン」が特集されている号も読みました。ここではじめて、コンピューターがどういうものかを知って、ロボットを動かすのに必要な機械、電気、コンピューターと、それらをつなぐ数学や理科の理論がつながったんです。
この1982年1月号の「マイコンなんてこわくない」もよく覚えています。僕が中学生になってからの特集で、このときはマイコンブームが到来して、僕もかなり勉強していたんですが、この号はたった十数ページの記事で、演算部のALU、メモリのしくみ、IOボード、クロック回路、BASICのプログラム……とコンピューターのしくみが本当にわかりやすくまとまっていて、これも神回ですね! 今まで苦労して学んだことがサマライズで理解できて、「すげーな『子供の科学』」と感動しました。
──「ロボットのつくり方」のような直接的な記事はなかったと思うのですが、機械、電気、コンピューター、理論、それぞれの記事の集合体がロボット開発につながっていたわけですね。
『子供の科学』は、僕のための雑誌だったんじゃないかと今でも感じます。インドではアメリカンスクールだったこともあって、学校には個人の好きなことが尊重される空気がありました。日本の小学校に通い始めてから、みんな同じがいいという空気があってあんまりなじめなかった。僕の好きなことは友達に理解されず、隠れて『子供の科学』を読んでいたんです。
当時の編集部の人に聞いてみたいですけど、これを本当にたくさんの子供に読んでほしいと思ってつくっていたのかと(笑)。僕みたいな小学生が他にどれぐらいいたんでしょうね。100年続いているということで、志がないとできないですよ。
──古田さんが中学生のときに難病にかかり、余命宣告されたお話は有名ですが、このときも『子供の科学』を読んでいたのでしょうか?
これまであまりこの話はしてこなかったのですが、1年間寝たきりで入院生活になり、さすがに一時は絶望していたんです。でも、なんとかこれをプラスに変えようと思い、他の人には絶対できないような勉強をする時間が与えられたんだと思うようにしました。『子供の科学』もそうですし、いろいろな本を読んでロボット開発に必要なことを猛勉強したんです。
そんなときに、『子供の科学』でシャープのポケットコンピューター、ポケコンの記事を見て、マイコンは高いけどポケコンなら買える値段だったので、入院生活の中で親にねだってポケコンを買ってもらって、プログラミングを勉強しました。ポケコンはBASICでプログラムを書くんですが、マシン語で入力もできる裏技があったんですよ。マシン語がわかると、言語に関わらず、すべてのCPUのプログラムが書けるようになります。昔はコンピューターの性能が悪くて、ロボットを動かすのにプログラム言語で指示を出したのでは処理が遅かったので、このとき覚えたマシン語で直接プログラムを書いてロボットを制御しました。
病床でも『子供の科学』はいつも刺激的な記事を届けてくれて、隅から隅まで読んだので、この当時の記事はいくらでも語れますね!
──1970年代後半から80年代の『子供の科学』が、ロボットクリエイター古田貴之をつくり上げたというのがよくわかって、とても感動しました! 最後に、今の読者の子供たちににアドバイスをお願いします。
『子供の科学』のよさって、今までまったく興味がなかったもののしくみ図が突然載っていたりして、ペラペラめくっていく中で気づきや驚きがあるところ。今はインターネットでなんでも調べられる時代ですけど、ネットは自分で興味のある言葉を検索して、探しに行かないと情報が得られない。でも『子供の科学』は、まったく自分が興味がなかった世界も見せてくれて、思いもよらない出会いや発見があります。ネットで学んでいるだけだと、興味がどんどん偏ってしまうと感じます。昔と違って、今は情報にあふれている時代ですが、『子供の科学』のような雑誌をペラペラめくっていって出会う気づきや驚きも大切にしてほしいと思います。
──貴重なお話をいただき、ありがとうございました!
(撮影/尾山翔哉)
1924(大正13)年に創刊された小中学生向けの科学誌『子供の科学』は、2024年で100周年を迎えます。100周年イヤーとなる2024年には、子供向けの企画はもちろん、100年間のすべての読者と一緒に盛り上がれるコンテンツやイベント、『子供の科学』とともに歩んできたパートナー企業とコラボレーションした企画など、100周年を記念したさまざまなプロジェクトを企画しています。
『子供の科学』では100年の節目を迎えるにあたり、科学技術の発展に貢献し、未来をもっとおもしろくするために、好きなことを探究して、チャレンジする子供たちをサポートする「KIDS STARTUP PROJECT(キッズスタートアッププロジェクト)」を立ち上げます。そのメインプロジェクトとなるのが、「好き」をトコトン究める次世代教育プログラム「小中学生トコトンチャレンジ2024」です。
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