「3・11から10年」みんなからのメッセージ

 《東日本大震災》3・11から10年 スペシャルサイト、および子供の科学2021年3月号のアンケートで、東日本大震災にまつわるコメントを募集し、たくさんの投稿をいただきました! みなさん、ありがとうございます。

 このページでは、読者の子供たちや、大人のみなさんから集まったメッセージの一部を抜粋して紹介させていただきます。編集部もみなさんからの投稿の1つ1つに目を通し、改めて東日本大震災の記憶を強く刻むことができました。

読者からのメッセージ

●「大丈夫だろう」という気持ちが、避難の遅れにつながり、津波の被害が大きくなったという話を聞き、怖いと思いました。

●母から聞いた話ですが私が小さい時、福島第一原発事故の避難のために父の実家に行っていたと聞きました。

母が僕を抱っこして隣の広い駐車場に逃げたそうです。

●保育園の時だったのでよく覚えていないけど、とても怖かったのは覚えています。

●地震の時の映像を見ると悲しくなります。

●船や車が、津波に流されて散らばっていく映像を見て、恐ろしくなりました。

●当時、多くの子供たちがボランティアに行ったと聞きました。よっぽど大変だったのだなと思いました。

●父と母から、放射線がいつどこで降ってくる、付いているかわからず怖かったと聞いています。

●僕は当時宮城県に住んでいました。生後8ヶ月くらいでしたが、避難所の様子をうっすら覚えています。

●公園で遊んでいたら、前にいたダンプカーがはねていたと姉から聞きました。

●東日本大震災の影響と思われることとして、原発やコンビナート爆発によるがんの若干の増加があると聞きました。僕も3才の時に急性骨髄性白血病になりました。1年間入院して治しました。

●震災が起こる18日前にわたしは生まれました。母から聞いた話だと、新生児でミルクやおむつを必要としていたけど、店頭に行っても1家族1個の制限でなかなか購入できずに大変だった、と聞かされました。

●友だちの家族が、東日本大震災の影響で関東から沖縄に引っ越しをしてしまったことが印象に残っています。

●東日本大震災の2週間前に生まれたので、自分で覚えていることはありませんが、計画停電が大変だったということを両親から聞いて知りました。また、水道水に放射能が混入するとのことで、ミネラルウォーターがなくなったりしたことも聞きました。

●ぼくはまだ赤ちゃんだった。お母さんに聞いたら、おばあちゃんの家に帰る途中の高速道路のサービスエリアでテレビを観たら、真っ赤になった日本地図が映っていてテレビがおかしくなったのかと驚いたと言っていた。その後、おばあちゃんの家についてテレビを観たら、津波で車が流されている映像が流れていて、本当に現実に起こっていることとは思えず言葉が出なかったと言っていた。

●自分も含めて地上にいた人は、地震の恐ろしさを体験しましたが、友人は地震発生時に地下鉄に乗っていまして、恐ろしさを感じることもなく、地上に出るまで何が起こっているのか把握できなかったそうです。

●まだ幼かったけど、いつも流れていたテレビのCMがほとんどなくなってしまったのが、すごく記憶に残っています。

●父が出張でお台場にいたときに東日本大震災を体験したそうです。展示会場から出て駅に向かって歩いているときに大きな揺れがあったので、すぐに会社の人とタクシーをつかまえて銀座の支店まで帰ったそうです。でも、ホテルは大森だったので、支店の様子を確認してから何時間も歩いてホテルまで着いたと聞きました。母の友だちも、新宿から調布まで歩いて帰ったら朝方になっていたそうです。コンビニにも食料などがなくなっていて、空腹で何とかたどり着けたそうです。僕が住んでいるのは田舎ですが、それ以来、父は通勤に使っている車の中には常に何かしら食料を入れています

●福島は隣の県で、原発は私が住んでいる県でも使われていたため、原発の事故はショックだったそうだ。母の友達も避難した。

●東日本大震災でたくさんの人が被害にあい、ニュースなどで福島の原子力発電所の放射能でいまだに福島に戻れない人がいて、大変だと思った。自分も災害に対して備えをしっかりしたいと思ったし、原子力はあまり使わないでほしいと思った。

●当時東京に住んでいましたが、自分は小さくて覚えていないので、家族から聞いた話です。当日大きな揺れに驚いて外を見ると電柱が折れそうな位揺れていた。テレビをつけると「大きな津波がきます高い所へ逃げてください。時間がありません」とどんどん切羽詰まっていく声が流れて、母は祈るしかなく、辛く怖かったそうです。父はたまたま休みだったが、運休で都心から家に帰れなくなった人を家に送るのに車で出て、とても混んで時間が掛かったが無事に送ったそうだ。何日かすると原子炉の事故で、福島から離れていても浄水場に汚染物質が出て赤ちゃんに安心して水を使えなくなったり、近くの幼稚園の園庭や公園の砂から除染が必要な数値が出たり、粉ミルク売り場の前で「ここも売ってない」と泣いている人がいたりしたそうだ。食べ物やガソリンが自由に買えないとか、不安な期間があった。辛いニュースが多い中、津波で浸水して孤立したが、二階にあった冷蔵庫の食料が無事で、数日間電気がなくて寒い中生き延びた人が救助されたニュースや、物資が被災地に届くニュースを見てホッとしたそうだ。

●原発事故があった福島でとれた食材が売れなくなったり、福島から逃げてきた人がいじめにあったという話を聞いて、とても残念に思いました。今もコロナで病院ではたらく人にいやがらせをする人がいると聞きます。こういうことは本当に嫌です。

●避難所で自分の食料から少し目を離した隙に、食料がなくなっていた。そのくらい緊迫していた。(担任の先生体験談)

大人からのメッセージ

ぶどうジャムさんからの投稿

 私は東日本大震災があった日、生後3ヶ月の娘をあやしながらテレビを見ていました。
 当時、縁もゆかりもなかった東北地方。
 仙台空港に到達した津波を伝えるテレビ画面の光景は同じ日本で起きていることだと思えませんでした。

 あれから10年が経ち、5年前に主人の転勤で東北地方へ引っ越しました。一気に東日本大震災が身近な存在になった気がしました。

 家族旅行で2年前に気仙沼へ行きました。シャークミュージアムと、その一角にあった震災を伝えるブースに行きたかったからです。不謹慎な理由かもしれませんが、観光する事で少しでも経済的に協力出来るかもしれないし、子供に震災の事を知ってほしかったから。

 パネル展を見た時に瓦礫の隅っこに赤いランドセルが見えました。ランドセルの持ち主は無事だったのかな?と不安になりました。

 『ランドセルだぁ♪』とか『ゴミすごいね』とか子供なら言いそうだなと思ったのですが、小学2年生でもパネル展を見て回って何か感じる部分があったようでボソッと『ランドセルがある。』と言ったのを今でも覚えています。

 日頃から学校で避難訓練が行われていると思います。
 どこかで『訓練だし』と思ってしまう気持ちってあると思います。

 でも、いつくるか解らない地震に備えていて損はないんだって気仙沼へ行き、先日の地震で被害が出ているのを知り思いました。

 学校外で家族以外といる時に地震にあったらどうするとか、家族で防災食や用品を見直す機会を我が家では作りました。
 子供なりに、考えたらしく『トランプ・ノート・筆記具・風船』が我が家の防災グッズに入りました。
 子供達なりの発想ってあると思うので、話し合う機会をつくるのは良いと思います。

Y.Mさんからの投稿

●3月11日(金)

 私は当時、東京にある金融関連の会社に勤めていました。

 その日は、東北地方に保有していた子会社の決算が間近に控えていたこともあり、地元の会計士との打合せのため仙台出張予定が入っていました。

 昼の12時半過ぎに上司と仙台駅に到着して昼食に牛タンを食し、駅に直結のビジネスホテルの部屋に荷物を置いた後、仙台市内にある子会社に14時半頃到着しました。

 到着して早々、事務員の方がお茶を持ってきてくださったのでそれを飲んでいたところ揺れを感じ、あっ地震だと思ったのもつかの間、一気に激しい揺れが襲ってきました。事務所の大きなキャビネットに体をひっつけて揺れが収まるのを待っていたのですが、揺れの激しさで全く体を動かすことができませんでした。しかもいつまで経っても揺れが収まらず、備え付けの戸棚が壊れて従業員が怪我をする事態なども発生し、このまま建物が倒壊するんじゃないだろうか、という恐怖がこみ上げてきました。

 ようやく揺れが収まりましたが、事務所内はあらゆるものが散乱してめちゃくちゃになっており収拾のつけようもなかったため、全員が業務を切り上げ、即自宅へ帰るという判断となりました。

 私たちはホテルに戻ったのですが、激しい余震が続いていたので部屋に戻るのは危険と判断されロビーで待機していました。ホテル内は停電し、いたるところで漏水が発生していました。電話回線も激しく混線していたのですが、このタイミングで東京本社や自宅に何十回もリダイヤルし、なんとか安否確認を実施することができました。

 その後、希望者はホテルの部屋に荷物を取りに戻っても良いということとなり、5組ずつぐらいが順番に非常階段を昇って部屋に戻り荷物を確保しました。その際、備え付けの飲み物とベッドのマットレスを持っていっても良いですとホテルの方に言われたので、今後のためにもそれらを持ち帰ることといたしました。

 相変わらず余震は続き、且つ、外では大雪が降っていたこともあり、絶望的な気持ちになりました。

 このあとどうすれば良いのか、と途方に暮れていたところ、ホテルと駅直結の地下食品街を開放するのでそこで一晩寝泊まりしてもらっても良いということとなったため、そちらに移り、布団を敷いて拠点を確保しました。ただ、電源がどれも死んでいたため携帯などの充電ができず、情報も不足しており、一体なにがどのような規模で起こっているのかをはっきり認識できないまま、不安な時を過ごしました。地下食品街ということで、お店のパンが無料配布されたのは不幸中の幸いでした。

 また、いつなにが起こっても迅速に行動できるように、靴を履いて荷物を抱えながら寝ました。

●3月12日(土)

 翌朝、情報収集をしようということで、宮城県庁に向かいました。

 宮城県知事が自衛隊出身の方ということで、こういった際のライフライン確保が整えられているのではという考えからです。

 結果的にその考えは的中し、電源が生きており、且つ、タコ足コンセントが至る所に備え付けられていました。ここでようやく充電を気にすることなく、携帯で本格的に情報収集をすることができました。充電コンセントを持っていない人たちも大勢いたので、みんなで譲り合いながらです。

 そこでとんでもない規模の地震が起こったことを知ったり、色々な人から安否を心配するメールが来ていたり、また、東北各地の子会社の様子などが写真で送られてきたりしました。

 東京本社からは、帰れる手段があったらどんな手段を使っても良い、と言われていたので、上司とどのように帰れるかを相談しました。電車や飛行機は止まっていました。タクシーは、3月12日時点では東京までの道のりにあるガソリンスタンドが機能不全に陥っているという情報があったため、乗せてもらうことができませんでした。これは後から聞いた話ですが、3月11日当日であれば、逆に情報がなかったことで東京まで乗せてもらえたそうです。

 宮城県庁では非常に印象的なことがありました。それは、山崎製パンが大型トラックで颯爽と現れ、大量のパンを被災者に対して無料配布を実施したことです。これにはもう本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 その後も情報収集を続けていると、どうも、上越新幹線が動いているという情報が手に入りました。新潟は日本海側なので横断するような形になりますが、道中の内陸部は比較的被害が少なくガソリンスタンドも空いているようだったので、次の日朝イチでタクシーを捕まえて目指してみようということとなりました。

 その晩は、子会社の来客スペースの電源が生きていることが分かったためそちらに移り、備え付けのテレビでニュースを見ながらほぼ眠れない一夜を過ごしました。大津波の映像は衝撃的で、事務所からそう遠くない仙台空港が水没している映像を見たときは改めて底知れぬ恐怖を感じました。

●3月13日(日)

 翌朝5時くらいから行動を開始し、仙台駅までタクシーを探し回りました。

 30分ほど探し回ったところ、幸いにもタクシーがつかまり、運転手さんは新潟まで乗せてもらうことを快諾してくれました。

 4時間くらい乗っていたかと思いますが、山形の田園風景などをボーっと見ながらほぼ放心状態であったと記憶しています。

 やがて無事に新潟につきました。

 8万円くらいのタクシー代を払い、新潟駅に入ってみたところ、上越新幹線はばっちり動いていました!

 すぐに切符を購入して乗車し、電車に揺られ、見慣れた上野駅が見えてきた際には涙が出そうになりました。

 13日の昼過ぎに無事に自宅へ帰ることができました。

 帰宅してまずは風呂に入りましたが、たぶんこれまでの生涯で最も長時間入っていたのではないかと思うくらいゆっくりと過ごしました。

●3月14日(月)

 あれだけのことがあったのだから、さすがに今日は会社休んでも許されるのではないか、苦難を一緒に乗り越えた上司からもその旨話があったので、ゆっくり休もうと思っていました。

 ですが、当時の会社の社長が、なんというか、非常にガッツのある方で、こういった状況下で事業をどうやって回していくかということを考えるべき、ということで全員に出社命令が下されました。

 そのため泣く泣く出社して疲労困憊の中、一生懸命仕事をこなしました。

●学んだこと

 なにをもって先への希望を見出せるか、ということが非常に大事と感じました。

 私は津波などの直積的な被害を避けることができたのは非常に幸運なことでしたが、11日の夜などは、今どういう状況になっているのか、ということがきちんと把握できず、非常に不安な時間を過ごしました。翌日になって正しい情報が分かってくるにつれ、自分が今どういう行動をとるべきなのかということが認識でき、希望が湧いてくるのを心から実感いたしました。 ですので、私としてはこの学びを糧に、厳しい状況下に置かれた際に心の持ちようをいかにプラス方向に持っていけるかを意識するようにしています。

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