《3・11みんなの体験談》編集部イワン編

震災当日

 東日本大震災を引き起こした大地震がやってきたとき、ぼくは自宅にいました。住んでいた東京都の区部を襲ったのは震度5弱の揺れ。東北地方の揺れとは比べ物にはならないでしょうが、木造の住宅は音をたてて左右に揺れて、上階が落ちてくるような危険を感じました。

 テレビの臨時ニュースでは、津波警報を知らせるマーカーが日本地図の沿岸部に点滅していました。1時間もしないうちに、津波が押し寄せ、住宅を飲み込んでいく映像が流れました。その映像はあまりに現実離れしていて、ぼうぜんとするばかり。報道を通じて、日に日に被害の全体像がわかってくると、起きたことが避けられない現実だということが突きつけられていきました。

それから4年後

 その後、日本各地の地域のことを紹介する雑誌編集部で働いていたときに、被災した東北地方に取材に行く機会が何度かありました。その中でも、2015年2月に訪ねた福島県飯舘村
いいだてむら
の光景が忘れられません。震災から4年近くが経ったころでした。

 豊かな自然と農村の暮らしが残り、「日本一美しい村」とも呼ばれていた飯館村。冬には収穫したダイコンを寒風に干すのが風物詩
ふうぶつし
でした。しかし、地震と津波が引き金となった福島第一原子力発電所事故によって放射性物質が飛散し、住民は避難生活をせざるをえなくなりました。

 地元の人の案内で飯舘村に入ると、村内のいたるところに黒いビニール袋が無数に積み上げられた異様な光景が目に入ってきました。その黒い袋には、放射性物質の除染
じょせん
作業によって地面からはがされた土が詰まっていたのです。そして、除染が進んでいるとはいえ、持っていた放射線の線量計は、他の地域よりも高い値を示すことがたびたびありました。人がいなくなった村には生活の音がまったくなくなり、しんしんと降る雪が白く覆っていきました。

仮設住宅での暮らし

 一方で、そこに住む人たちの暮らしが根こそぎなくなってしまったわけではありませんでした。飯舘村の住民の多くは、別の地域の仮設住宅に避難しました。そこには交流スペースがつくられて催し物が開かれたり、当番制で子供たちが高齢者の住宅を訪ねたりと、人々が孤立しないような取り組みが行われ、新たなコミュニティーが築かれていました。特に、仮設住宅に住む人々の楽しみは、食料品や生活用品を積んだ移動販売車でした。移動販売車がやってくると住民が集まって活気づき、会話が生まれて笑顔がこぼれていました。「どこでだって生きていかなきゃいけない」、そう話す住民の言葉が今も心に残っています。

 震災が起きて10年。日々の生活の中で記憶の片すみにいってしまっていた出来事も多くありました。記憶をたどってあらためて思うのは、震災によって変化した暮らしの延長線上で私たちは生きているということ。時折振り返り、今を見つめ直す大切さを感じます。

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