『子供の科学2025年1月号』の「ヘルドクターくられ先生のあやしい科学を疑え!」は読んでくれたかな? 本誌では収まりきらなかった、くられ先生の頭の中の徒然考えているお話を、コカネット限定で配信中! 本誌の連載とあわせて楽しんでね。
イラスト/obak(@oobakk)
自分がどんなことに努力したらいいか
本誌では、努力の方向性の話をしたのですが、こちらでは努力の質の話をしたいとおもいます。
誰しも「モテたい」とか「金持ちになりたい」とか「チヤホヤされたい」などと欲があると思います。
そして、モテてる人や金持ち、有名人を見て「羨ましい~」って思ってる人も多いでしょう。そうした恵まれた人は自分とは違うから……と思ってないでしょうか?
テレビやYouTubeといったメディアでは、それはもうピカピカのすごい人ばかりが目に入ります。みんな才能や美貌、スタイル、センス、そうしたものに恵まれた人ばかりが目立っているように思えます。
そうしたものばかりを見ていると、自分は如何に小さなもので、何もないのか……と思っている、なんなら自分は別のモノであるというくらいに考えている人も多いかと思います。
「モテたい」、「金持ちになりたい」、「チヤホヤされたい」これに関して、努力したことはあるでしょうか? ピカピカの人達は確かに才能などに恵まれているかもしれませんが、この努力の積み重ねのことであることが大半です。
そうなのです、「モテたい」なら「モテる準備」をしなくてはいけないのです。そうすれば、ゴールが漠然とでも決まるので、努力の道筋が立つわけです、積み重ねの方向性です。
そういう意味では、ちょっとかわいい女の子は、少し努力をすれば、そこそこ「かわいい」を盛れるので、見た目の上では「モテ」はかなり安易に達成出来ます。男もそれなりに美形であれば、そこそこの「イケメン」を盛るのはそれほど難しいものではありません。
いやいや、自分は素材が悪いから、モテないんだって……って思ってるなら、それは一度でも体型を気にして運動をしたことがあるのか、きちんとメイクの勉強をしたことがあるのか……という話になってくるわけです。これも積み重ねです。
努力とは目的のためにできるあらゆることの積み重ねなので、見た目ばかりにつぎ込んで中身がダメだと、結局モテても長続きはしませんから、その先の幸せがないわけです。
勉強だってゲームも努力の先、「目的」の先まで考えることができると、なおいいといえます。
例えば、勉強をがんばっていい大学を出て給料の高いホワイトな会社に就職するのと、ゲームをがんばってプロゲーマーとして賞金とサブスクで食っていく……この極端な2つの人生、どちらが難しいかという問題です。
勉強はからっきしだけど、ゲームだけはちょっとやっただけですぐ上位層まで行けてプロゲーマーもけっこう普通に倒せる……とかになってくると、マジでプロゲーマーの「才」があるわけです。
これは勉強もスポーツも同じで、その人の「特性」というのが「才能」にあたるわけです。
この自分の得意分野、自分の才能を発見することこそが、実は「人生の目的」でもあると筆者は思います。
この「自分だけの特性」を見極めるのは、本当に難しくて、自分という最も見慣れた素材を俯瞰で見るというのは本当に難しいのです。偉そうに語っている筆者でさえ、自分のことは一部しかわかっていないまであります。
努力をみれば天才とはなんなのかが見えてくる
さて、この「自分の特性」を見つけること……これに若いウチから気づいた人が、その才能の上に努力を重ねたモノ。これを世間で「天才」といいます。
「天才」はあくまで秀でた才能ですから、どんなに芸術的センスがある人でも、多くの今までの芸術を学んでその作法を学ばなければ、その先には行けないわけです。
「天才」と呼ばれる人も、実際は会ってみると、確かにその特出した部分は神がかってスゴイのですが、それ以外は普通の人間です。要するに、すべてのステータスが100点の人間など存在しないということです。
スポーツ選手がインタビューでトンチンカンなことをっいったり、芸能人がしょっちゅうスキャンダルで騒いでいるのも、秀でた部分以外は、みんなただの人間であるというところが垣間見えるところです。
まぁ、違法なことをして誰かに迷惑をかけてないのであれば、別に誰が何をしようとどーーでもいいんですが、ともあれ、天井の雲の上の人なんてものは幻想で、みんな見えない水面下でバタバタと泥臭い努力して、積み重ねているだけなのです。
そう考えれば、何も努力せず「~っていいなぁ~」って考えている場合じゃないのです。
自分の得意ってなんだろう……と自分観察をまずは始めて見ましょう。
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