『子供の科学2024年10月号』の「ヘルドクターくられ先生のあやしい科学を疑え!」は読んでくれたかな? 本誌では収まりきらなかった、くられ先生の頭の中の徒然考えているお話を、コカネット限定で配信中! 本誌の連載とあわせて楽しんでね。
イラスト/obak(@oobakk)
「不幸になるムーブ」を科学する
禍福は糾える縄の如し(かふくはあざなえるなわのごとし)
幸福と不幸は、交互に編み込まれた縄目のごとく来るものであり、災いが転じて福となったり、福も転じて災いとなったりする。そういう言い回しがあるように、運否天賦は人により多少の差はありこそ、人生全体ではおそらく均一だと科学的には考えることができます。
宝くじを買って当たりしか出ない人は、科学的におかしいので存在しないのです。ただまぁ偶然の重なりでそういう風に見える人もいるでしょうが、幸運の女神の力だけで生きてる人というのもまた存在しません。
さてさて本誌では、人の禍福は捉え方と、その人の行動次第という話をしたのですが、こちらでは「不幸になる方法」を科学的に考えてみたいと思います。
先の幸福論と同じで、どんな境遇も幸福だと考えれば幸福ですし、不幸だと考えれば不幸であるという極論はとりあえず置いておいて、あくまで一般論での「友達が増えて楽しいことが増える」、「仕事がうまくいって収入が増える」、「彼氏彼女ができる」を幸せと定義しておきます。
「俺は友達はいらないからできるほど不幸だ」とか、「仕事なんか飾りなんでどっちでもいい」という意見はひとまず無視します。
以前、こちらの連載で「君は悪いオタクになってないか?」という話をしました。
自分が満足するために学問を振り回し、人にドヤるだけドヤってマウントをとり、人の欠点を笑うために使っていれば、その学問に興味を持つ人は減るから、結局その人は、そのジャンルにとって悪影響となる、ようするに害悪オタクムーブをすると、環境を悪くするという話です。
この害悪オタクムーブをしている人は、幸せなんでしょうか?
たしかにその場その場では、人にマウントをとって「ぐぬぬ」といわせることができたら気持ちがいいかもしれません。しかし、そういう行為を日常的にしている人って信頼が置けるでしょうか?
例えば、仕事を依頼したいなって思うでしょうか? 仮に同じくらい詳しい専門家が2人いて、そのうちの1人がそうした攻撃的な活動をしている人であれば、仕事を頼みたい人がそれをみてどちらを選ぶのか……容易に想像ができますよね?
Twitter上でとある人にフォローされたとしましょう。その人のタイムラインを見に行くと常に誰かにウザ絡みをして、攻撃的なリプばかりをしている人がいたら、その人をフォローバックしたいと思いませんよね? なんなら怖……とブロックする人もいるかもしれません。
ここで大事なのは、害悪ムーブをしていた人は、それがきっかけで仕事のチャンスを喪失している。つまり「幸運」が来ることを「知らない間」に回避しているということです。
人間というのは1人でできることには限界があります。だから友人知人を頼って、1人で出来ないことをやり、それを営利的にしたものが会社などの社会活動です。
社会活動において、害悪ムーブをしている人というのは「好意をもたれる」を捨て、「自分が今だけ良い気分になる」を選んだ人といえます。
そういった人は社会では短期的には成功しても、長期的には周りに人がいなくなり、孤独になって、自分に来るチャンス自体を逃し続けることになります。そうなれば、多くの友人に恵まれた人はいろいろなチャンスを得られますから、逃していた人からすれば「嫉妬の対象」になることもあるでしょう。
自分が選んだ最初のマイナスの選択肢が、より強いマイナスの感情の引き金になる。そうしたマイナスの感情をさらに世界に向ければ、世界からはよりマイナスの扱いを受ける。
これはもう「呪い」の類いです。
社会に対して攻撃的に生きるということは、これだけの損失があります。
でも世の中は、そうした人も、人を自分の権力で弱者を虐げて利用し、上司の足をひっぱって自分の手柄にするというような邪悪の化身のような人もまた存在します。逆にいえば、それくらいの邪悪さがなければ、ある程度邪悪な人間が混ざる社会では圧倒的成功者になれないともいえるので、そのバランス感覚がいかに難しいかはいうに及びません。
しかし多くの場合、負の感情で始まった日常は人生全体の機会損失に繋がる可能性が大きく、マイナスのドミノとなっていることが多いので、そうなることがわかっているならやめておいた方がいいよね……というまさにまさに、むべなるかなという話なわけです。
チャンスを掴む生き方
では愛されることが最も重要なんでしょうか?
この「好意をもたれる」に全振りして、愛されることを仕事にする……という、アイドルのような暮らしも確かに存在します。しかし、愛されるために自分の「好き嫌い」も封印したり、好きな人と好きに付き合うことも許されなかったり、ちょっとでもマズい発言をするとすぐ炎上なんてことになったりするので、それはそれで大変な生き方だと思います(別にアイドルの職業性を否定しているわけではないです)。
ともあれ、「不幸になる」というのは、「嫌われる」こととほぼ同義であることがわかります。
例えば、話題が「人の悪口」しかない人は、自分がいないところでこの人は自分の悪口もいってるんだろうな……って思われるのは当たり前ですし、頼まれた仕事をなんだかんだ言い分けをして結局やらない人には、何か大きな仕事を任せようとはならんわけです。毎度自分の感情を制御出来なくて周りにぶつけてしまうような人は大事な人からも愛想を尽かされることにもなります。
ここで、小学校で校長先生がいってた話、大人の皆さんは遠い昔の記憶をたどりましょう。
・挨拶をされたら挨拶しましょう
・ありがとうといいましょう
・相手の気持ちになっていいことをしましょう
それ以外にもいっぱいあったと思いますが、基本的には社会に対して、自分のできるプラスのことを積み重ねていくことが、結果的に自分のチャンス増加に繋がり、幸せにつながりやすいよ……ということです。
その上であえて、この文章を書いてる僕自身はどうなんだといわれると……まぁ……なんともいえません(笑)
「マッドサイエンス」という怪しげな雰囲気を売り物にして、なんなら著書は有害図書指定まで受けているわけですから、そんな怪しげな物書きに仕事を依頼しようとは、相当なメリットがなければ依頼しようとはならないわけです。だいぶハードモードの人生を選んできたな……と今になって思います。
安心安全で科学の楽しさを伝え、怪しかったり、怖い話は一切しない……実は商業的に考えると、そちらが正解でしょう。言うまでもない!
実際にサイエンスコミュニケーターの人や、理系の芸人さんは、後ろ暗い部分を一切排除しますよね。そうじゃないと仕事がこないからです(笑) もちろんそれを根性なしだとか、上辺だけだって否定する権利は誰にもありません。だってお仕事でやっていく以上、きちんと定期的に仕事をもらえて、スポンサーがついて、ファンに愛されることが最優先事項だからです。
それでも自分は、この露悪的に科学のおもしろさを伝えることは、他の人がやっていないので、闇の科学が大好きな自分がやらねば誰がやるんだ……という、信念をもって活動をしてきました。
これを「馬鹿な損かぶりのピエロだなぁ」と思うか、「作家の矜持を見せるな」と判断いただくかはお客さん次第なのですが、幸運なことに作家活動を20年以上続けていた結果、こうした媒体でも書かせていただくことができたので、矜持を貫いたのは間違ってなかった……と信じたい……ダメですかね?
文